こんにちは、KOHNOです。前回のブログはいかがでしたでしょうか。今回のブログは、オンラインショップの特集記事のアーカイブになります。
伝統が生み出した五彩の美
ジャパンクタニとして世界中から評価され、その名を馳せる九谷焼。約360年の歴史と伝統の技が現代にも継承され、あまたの人々に永く愛され続けています。豪放華麗な色絵装飾を中心とした独特な風格を誇る石川県の伝統工芸。鮮やかに日常生活を彩ります。
九谷焼の作品の魅力は五彩(赤・緑・黄・紫・紺青)を基調としたその独自色彩が重なりあって生まれる重厚感にあります。
北国ならではの力強い素地に、優美な色絵装飾を施し、作品が作り上げられています。
手に取った時に感じる和絵具のなめらかな質感も楽しみの一つです。
今回は色絵の名窯、青郊の三段重をご紹介いたします。九谷焼ならではの色彩と華やかな文様が楽しめます。段を重ねた境目も絵柄がつながるよう緻密に計算して上絵が描かれているのも秀逸です。
おめでたい日の料理や年始のおせちの盛り付けなどに最適な器です。
九谷和絵具鮮やかに…
豪華絢爛重箱<三段重 花詰(赤)>
九谷焼の歴史
九谷焼、365年の物語。
・江戸前期 1655年 17世紀中頃 九谷焼の誕生
1655年(明暦元年)頃、加賀藩の支藩、大聖寺藩の初代藩主・前田利治が、領内で発見された陶石に着目。九谷(現在の石川県加賀市山中温泉九谷町)に窯を開いたことが九谷焼の始まりとされています。しかし、約半世紀後、窯は突然閉鎖。原因はいまだ謎ですが、この間に焼かれたものが後世、古九谷と呼ばれ色絵磁器の代表として高く評価されています。
・江戸後期 19世紀 復活と発展
古九谷の廃窯から約100年後、加賀藩が金沢で磁器の生産を再開し、再興九谷の時代を迎えます。春日山窯の木米風、古九谷の復興を目指した吉田屋窯、赤絵細描(飯田屋風)の宮本屋窯、金襴手の永楽窯(九谷本窯)など多くの窯が独自の画風を築いてきました。
九谷焼、世界へデビュー(華やかさと緻密さに賞賛の嵐)
・明治から昭和前期 19世紀末~20世紀前半 産業振興で海外へ
明治維新後、藩から支援が途絶えた窯は自活を迫られます。旧大聖寺藩の職人たちは作家として名をあげようと技術向上に努め、竹内吟秋浅井一毫兄弟や初代須田菁華などの名工を排出。一方、旧加賀藩の職人たちは輸出産業に活路を見いだし、九谷庄三を中心に金彩と赤絵のジャパンクタニと呼ばれる彩色金襴手作品を欧米向けに数多く生産しました。
・昭和後期~現代 20世紀後半~
伝統的な美術工芸品として海外にもその名を知られるようになった九谷焼。昭和後期以降は、工芸品の枠を越え美術品として制作されるようになり、人間国宝も誕生しました。また、ライフスタイルの変化に合わせた多種多様なデザインの器など現代九谷焼の特徴も形づくられていきました。
↑画法の写真 (黄色の3段)
現代 明治以降に生まれた画法
青粒(あおつぶ)
細かい青あるいは白の点を盛り上げて並べていく。粒の大きさ、色、間隔を均一にする高い技術が必要。
花詰(はなづめ)
全体に花模様を施し、その輪郭を金で彩色。九谷焼の中でも特に豪華さと優雅さを感じさせる画法。
盛(もり)
粘土の高い絵具をクリームのように絞り出し厚く盛り上げる。立体感が増すため置物によく用いられる。
釉裏銀彩(ゆうりぎんさい)
銀箔を貼り、その上から透明釉薬を施す釉裏技法。ガラスのような光沢と箔の輝きが美しい。
彩釉(さいゆう)
磁器に五彩の釉薬を高火度で焼き付ける技法で、三代徳田八十吉が確立。抽象的なモチーフが特徴。
釉裏金彩(ゆうりきんさい)
釉裏に厚さの異なる金箔を切り取って模様をつくり、それらを組み合わせることで模様を描く手法。
秀幸九谷株式会社 社長の思い
絵付業から始まり、九谷焼製造卸業として創業して130余年、当代で四代目となります。艱難辛苦(かんなんしんく)を常に見て育ちながらも伝統美・職人の技に魅せられ今日に至っております。昭和57年に制度化資金で連棟式の建物を建て、店舗を構え日々お客様との会話を楽しんでおります。「日本の伝統美を豊かな生活の中に生かす」この思いを忘れることなく次へと繋がる九谷焼と願っております。五彩館・体験館・県立技術研究所と、見て触れて楽しめる施設の揃った陶芸村に店舗があります。新しい物から掘り出し物と豊富な品揃えで楽しいひとときをお過ごし下さい。
明日は引き続き、オンラインショップのおすすめ記事のアーカイブを掲載します。
また明日お会いしましょう。
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